だざいおさむ

久しぶりの日記。

でも全然このブログのテーマと関係ない。

今日のテーマは太宰治

あの『走れメロス』の人です。


今彼原作の『人間失格』が映画化されて上映中の、あの太宰治です。

いや、僕は中学だかそこらへんに走れメロスを読んだけれどもまったく感動しなかったんですよ。

ところがこの前映画を観にいって、「なんじゃこの映画、くそつまらん。」と思って、そうして原作はどんなもんじゃろかいと思って『人間失格』の文庫本(表紙に生田斗真)を啓文堂書店で購入してみたんですね。

人間失格 (角川文庫)

人間失格 (角川文庫)

そしてら「なんじゃこの作家、めちゃおもじゃん!」ということで、見事にはまりつつあります。

内容はまぁ僕には良くわからないんですが、とにかく太宰治の人生観というか、人間観というか、そういうものに、理想をみるようになりました。

マテリアルは『人間失格』と『斜陽』途中まで、だけですが、なんていうか、世間で俗に言うまともな人間てのが実は狂人で、ヤク中やアル中こそがまともなのだと言う、こういう風な人生観・世界観なんですねぇ。
嘘でぬりかためて、それがまるでまともであるかのように振る舞う世間の人間たち。一方、そんな人間の本性がいやで、それでしかも自分の心からそんな世間に馴染むことができない、そういう人がアル中になったりヤク中の人間たち、なんですねぇ。
これは一理ある、というか、人間のこの現代社会の営みを見ているとものすごく当てはまると思います。
だって、僕は今の人間関係とかってほとんど嘘だと思うんです。
みんな本心を隠しあって、そうやって偽りの自分で人生を生きている。
なぜならみんな本当の自分を、社会や人々は受け入れてくれないと思っているから。
つまり自分を偽らなければ生きていけない世の中ってことです。
それはおそらく一定の社会システムが構築されたことによって起こったことで、
太宰の思想は、社会システムが発展していくにつれて、その社会に生きている人たちの理想と、社会的な理想がどんどんかけ離れていっている、ってことを明らかにしようとしていると僕は思います。
人間失格、斜陽にあらわれる堕ちていく登場人物は、その高度化していく社会のいわばシステム化や画一化に取り残された、またはそれらを打ち破ろうとする人たちなのだと解釈しました。
そしてそれらは実は万人の理想であるがゆえに、堕ちていく姿が美しい、なぜか共感を呼ぶのだと思います。

とはいっても、僕が勝手に共感しているだけですけど。


うーんなんか書いてはみたけどものすごく中途半端に終わった・・・
すんません。

斜陽 (角川文庫)

斜陽 (角川文庫)